総評 100/200(可)
純粋に下品特化の抜きゲーかと思いきや、実は主張の強い異色作。
非常に失礼な言い方になるが、本作で表現したかったろうことを実現するためには、量的にも質的にもリソースが足りていないと思うのだ。それがみているだけで痛ましい。まるで生まれて初めて書いた小説を読み返すかのような痛々しさが、本作からは呪いのように伝わってくる。
シナリオ 15/60点
ストーリー性について
本作を心から楽しむには、まず、「商業創作における理想と現実のギャップ」ということを念頭におくと良い。そして、登場人物がそのテーマにおける何を象徴していて、ストーリーは何を風刺しているか、という視点から読んだほうがいい。そうではなくて拾い読みをした場合、結局このシナリオは何だったのかさっぱり分からず、ただの腐れ駄文にしか思えないだろう。
実際、本作のテキストはお世辞にも美文であるとは言いがたい。私が最初に読んだときは、「これは中学生の書いたジュブナイルポルノか?」と呆れたくらいだ。
まるでネット小説の第2部以降のような導入は不適切であるし、一部のテキストは日本語として破綻したものだった。また、エロシーンにおける心理描写は稚拙であり、ウケ狙いと思わしき卑語がウィンドウに陳列されるたびに寒気がした。もし最後まで本作の隠された意図に気づけなかったとしたら、私は少しの躊躇いもなく、このシナリオの評価を地雷としたことだろう。
しかし実際に10点以下をつけていないのは、全ての欠点を覆すには及ばずとも、ある程度の魅力を感じたからである。その魅力は、創作のスキルに依存するものではない。ただ純粋な情熱の欠片を見つけたのだ。
それは、例えば、素人が書いた同人誌を読んだときに伝わってくる創作への渇望に似ている。あまりにも青臭くて、読んでいるこちらが赤面するくらいの、剥き出しの創作意欲である。そういったものは、「誰かに読んでもらうこと」を意識すればするほど影を潜めるものだ。しかし何故か、本作は不特定多数の者を意識すべき商業作品であるにも拘らず、そういう我の強さを隠しきれていない。
真っ当に評するならば、このシナリオは制作者のオナニーに過ぎない。エンターテインメント作品であるならば、テーマは”誰もが読み取れる”ように提示されなければならないのに、本作では”分かる人にしか分からない”ように書かれている。だから、この点を踏まえた上で、なぜ本作は駄目なのか、という論旨で批評するのは簡単なことだ。まとまりに欠けるプロットに幼稚なテキスト――そこをつつけば、いくらでも駄目な理由は用意できる。
しかし、たいへん不名誉なことに、私はこの手の青臭さが嫌いじゃない。だからこそ、このサイトでは未だに同人という不完全なものを扱っている。そういう不完全さのなかに魅力があるのだとしたら、それはやはり、「俺はこういうのが書きたいんだ!」という欲求の現れだと思う。今回は、そこに惹かれた。
もっと具体的に ~裏のあらすじ~
ここでは、先の項目で述べたことをより具体的に説明するとしよう。相当なネタバレを含んでいるから、自分で全部考えたい人は読み飛ばしたほうがいい。しかも、ここに書かれているのは私個人の解釈の一例に過ぎないから、作者の意図と一致するとは限らない。
まず、各登場人物は次のように置き換えられる。
- リョーコ=クリエイター
- サクラ=ヒロイン(理想像)
- シン=アダルトゲーム市場
- 生徒=プレイヤー達
- 学園=制作会社
こう把握したうえで、本作のあらすじを再構成すると、以下のようになる。
クリエイターにとって、苦労して産み出したヒロイン(理想像)は、とても大切なものだ。クリエイターは、出来ればこのヒロインのいる作品を大切にしたい。しかし、プレイヤーないし市場の求めるヒロイン像(作品のあり方)が、クリエイターのそれと一致するとは限らない。迎合主義的な要求をする市場(流通)に対し、クリエイターはついに反旗を翻した。
その結果、確かにクリエイターの理想(ヒロイン)は守られたが、プレイヤーからは外方を向かれてしまった。制作会社の経営状態は悪化し、このままでは倒産してしまいかねない。制作会社は、やむを得ず、市場(流通)からもたらされる利益(出資)の見返りとして、クリエイターとしての理想を放棄することにした。
しかし、クリエイターは、そのことに納得できない。かといって、一介のクリエイターには会社を守れるほどの財力はない。現実的に考えれば、会社の方針どおり、自分たちの理想の放棄――ヒロインを身売りさせるしかないのだ。しかし、もしヒロインを身売りさせてしまったなら、彼女は、市場という欲望の渦に巻き込まれ、壊され(消費され)、最後には死んでしまう(誰の記憶にも残らない)だろう。
クリエイターにとって、それだけは受け入れられないことだった。そこで、クリエイターは、自らの理想(ヒロイン)を守るために、市場に奉仕する(市場にとって都合の良い作品を作る)ことにした。クリエイターにとって、迎合主義を自ら受け入れることは、自らの理想を裏切ることとはイコールではないのだ。
市場に奉仕しながらも、クリエイターは心のなかでそれを否定する。自分は、理想(ヒロイン)を守るために、仕方なく、こんなことをしているのだ、と信じている。理想(ヒロイン)は純粋で、穢れなきものであるべきなのだ。しかし、市場に奉仕する行為を重ねるたびに、ヒロインはクリエイターの理想(あるべき姿)から離れていくのだった。
このように、本作をメタ的な観点から読むと、隠された物語が透けてみえる。
エロについて
本作のエロシーンは、犯される女の建前と内面を1人称視点で対比しながら展開される。リョーコは、シンに逆らえないので、仕方なく淫乱に振舞う。しかし内心では、性欲を貪るだけの生徒達や過剰に淫らな行為を軽蔑している。つまり、淫乱な振舞いと内心の拒絶とが対比されるわけだが、その対比は上手く表現されていたとは言えない。
この対比の失敗は、リョーコが痴女として振舞わされる場面で浮き彫りになる。この場面では、内心の拒絶を描くことがほとんど放棄されている。リョーコの嗜虐的な気持ちや痴女としての行為ばかりに、テキストが割かれている。内心の拒絶は、行為がすっかり終わった後に、思い出したように描かれるだけだ。それがとても不自然に思える。
なぜ不自然なのかといえば、リョーコの気持ちの変動に一貫性がないからだ。これは、場面選択式のゲーム進行形式を採用しているせいでもある。ある場面では内心の拒絶が濃く描かれているのに、別の場面では「ほとんど堕ちているのではないか」というくらいに、淫乱さばかりが強調して描かれている。この一貫性のなさがとても不自然に思えるのだ。先に述べた痴女場面においては、そういう不自然さが特に目立つ。
そもそも、本作のテキストライターは、1人称による心理描写が苦手なのではないかとも思える。実際、3人称に近い冷静さで状況を説明している文章があちこちに――特にプロローグに――見受けられるからだ。こういう、1人称と3人称を混同したようなテキストには強い違和感を覚える。
グラフィック 50/80点
基本CG枚数は、40枚。
エロシーンは、34本。その内訳は、リョーコ(24)、サクラ(3)、リョーコ+サクラ(7)となっている(※単独と複数の境界をどう考えるかによって、内訳は異なる)。
一枚絵は、文字どおり一枚の絵として鑑賞するぶんには期待どおりの出来だった。性器から立ち昇る湯気や白濁に塗れた痴態といい、だらしないアヘ顔といい、本当に下品な絵だ。ただの絵として評価するなら、60点といったところ。
評価を大きく下げた原因は、演出の不味さだ。
まず、差分による変化が貧しすぎるのがいけない。体の動きどころか、表情の変化さえ満足にできていない。テキストとグラフィックが不調和で、1本の作品ではなく別物であるかのようだ。
また、唐突な画面効果によってショッキングな場面を演出しようとしているが、それを多用しているのがいけない。そういうのは、ここぞという場面でのみ使わないと、効果が薄れてしまう。多用すればするほど、それは演出として働くどころか、逆に観ている者を白けさせる。
モザイクによる修正は、サンプル画像と同程度。肛門は挿入前から修正されているが、排泄されたスライムは修正されない。
音楽・声優 20/40点
声優さんの演技は普通。評価を下げたのは、主に音声の使い方が酷いせい。喘ぎ声が聞こえるべきではないときにBGVを垂れ流したり、斜め上にすべる派手な効果音による演出が寒々しい。
リョーコ | 木野原さやか | サクラ | ひかる |
システム 15/20点
シーンスキップやヒント機能をつけることで、ユーザーフレンドリーなシステムに仕上げようとした努力は評価する。しかし、セーブ枠がたったの6枠しかないのは改善すべきだ。
エッチ内容について
作品情報
タイトル | 巨乳性奴会長 恥辱の白濁黒タイツ ~こんな奴のオカズになるなんて!~ |
ブランド | エレクトリップ |
発売日 | 2011年2月10日 |
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